タイトルイメージ 本文へジャンプ

コラム
桂小金治師匠講演会
桂小金治師匠 にお願いしました。

北上市倫理法人会主催によるモーニングセミナー600回記念講演会の講師をお願いしました。

北上市「さくらホール」 7月24(火曜日)午後6時30分より8時まで 会券2000円(残り100席
講演会場の中ホールは450席となっております。
北上市内会員企業100社(100席)と企業協賛250席は既に予約済みです。
残り100席しかありませんのでお早めにお申し込み願います。
携帯09079307006 会長 川辺公雄まで 事務局電話:0197-81-5055 
尚、北上市倫理法人会会員企業は1枚プレゼントです(詳しくは下記内容をじっくりご覧下さい)





テーマ「人の心に花一輪」

■『古き良き時代に育てられて』
 僕はありがたいことに古きよき時代に親に育てられて、今日があります。
 僕は大正15年10月6日生まれ。この78年間の我が人生を振り返ってみて、今日健康で幸せで生きていられるのは、私を丈夫に生んでくれたお父さんお母さんのおかげ、私を厳しく育て上げてくれたお父さんと、優しく守ってくれたお母さんのおかげです。
 東京杉並、ここに天が勇ましいと書いて「天勇」という、変な屋号の魚屋さんがありました。僕はそこの長男に生まれたんです。妹が3人生まれたんですが、中の2人は赤ん坊のころに死んで、9つ違いの妹と2人きょうだい。おふくろのお腹がだんだん大きくなり、おやじはおふくろに頼んだそうです。「一姫二太郎っていうが、おれは一番最初跡取りの男の子が欲しい。まず最初は男を生んでくれ。最初に男を生んでくれたら2番目からは何でもおまえの好きなのを生んでいい」。おやじの念願が天に届いたのでしょうか、大正15年10月6日の朝、おぎゃあと僕が生まれた。その産声を聞いたときに、おやじはすぐ産婆さんに聞いたそうです。「ついてるか」「ええ、割合大きいのが」と。
 男の子が生まれた。おやじは喜んだ。私のおやじの持論は「鉄は赤いうちにたたけ。人間は若いうちにたたけ。牛のけつと女房のけつは3日ごとにたたけ。ガキの頭は毎日たたけ」。こういう信念を持っているおやじのところに生まれた僕は大変です。悪いことをするとおやじに呼ばれます。「こっちに来い。頭を出せ」。ゴツンと1発やられる。やった後で必ずおやじはこう言うんです。「痛かったか、その痛さを忘れるな」。人間は痛さの中から善悪を知り、失敗の中から前進することを覚えていくんですね。
 全くこの言葉を聞くと、皆さんの頭に浮かぶのは暴力という言葉です。他人同士が殴り合いをする、これは暴力です。夫が妻をぶつ、これは暴力です。妻が夫をぶつ、これは大暴力です。親が子供をぶつ、これは愛のむち。我が子をいい子にしたい、強い子にしたい、そういう親の願いがこのげんこつの中にこもっている。この子供の頭から心の中にしみ通っていくんですね。我が子をしかる親、我が子を殴れる親、これはすばらしい親です。僕はこのすばらしい親に育てられました。そのかわりお母さんが優しかった。
 僕のお父さんは江戸っ子です。色が浅黒くて、鼻筋が通って、目が大きくて、なかなかいい男だった。僕のお母さんは色白で、小太りで、昔から「色白は七難隠す」と言いますが、僕のお母さんは白いの白いの抜けるように白かった。なにしろご飯を食べ終わってすぐ裸になると、さっき食べたおかずが透けて見える。丸顔で、眉毛が下がって、目じりが下がって、僕にうり二つ。そう聞いただけでどれほどいい女かはわかっていただけると思いますが。
 僕のお母さんは長野県飯田の在、山の奥の貧しい農家の4人きょうだいの一番下に生まれて、うちが貧乏ですから、子供のころよその子守奉公ばかりさせられて、学校に行っていない。字が読めない書けないおふくろですが、心の優しい、いいおふくろです。僕が学校に行くようになって、字が読めるようになってきたら、昔の月刊雑誌を持ってきて、挿絵の楽しそうなのを見つけると、「読んでおくれ」。一生懸命読んでやると、おふくろはほろほろと涙をこぼしながら聞いてくれ、「おまえは偉い子だね、字の読める子は偉い子なんだよ。ありがとう」と言って喜ぶ。おふくろが喜んでくれるのはうれしいですから、今度は自分で本を持っていって、「母ちゃん、ここ読んでやろうか」「読んでおくれ」。一生懸命読んでやると、おふくろはほろほろと涙をこぼしながら聞いてくれた。

■『努力、経験、苦労。これが第1ラウンド』
 厳しいお父さんと優しいお母さんに挟まって、僕は成長していったんです。僕のお父さんが僕の子供のころに教えてくれたことは、「人生は我慢して生きていくところなんだよ、辛抱した人間はきっと幸せになれるんだよ」。我慢と辛抱ということを教えてくれました。ですから僕のお父さんは、いい言葉で言うと節約家、悪い言葉で言うと大変けちなお父さんで、僕は子供のころおやじにおもちゃというものを買ってもらった覚えがほとんどありません。「欲しいものがあったら自分でつくれ、つくれないものはあきらめろ」。こういうおやじです。しようがないから、僕はかまぼこの板を削って、船を自動車を飛行機を、いろんなおもちゃをつくり出して楽しんだ。ないところから努力、苦労をすれば、何かができ上がるんだな、こんなことを子供心に覚えていったんだと思います。
 何しろけちなお父さんですから、僕が学校に行くようになって、鉛筆のしんを削るとおやじが怒るんです。「しんを削るな、もったいない。木を削ってしんが出てきたら、あとは鉛筆をぐるぐる回しながら書いていけ。いつかは先がとんがるはずだ」。商業学校に行くようになって、簿記で線を引くのにおやじは赤鉛筆を買ってくれない。「赤で線を引かないと困るんだよ」と言ったら、おやじは「黒で線を引いて、ここのところに『ここは赤です』」。「そういうばかなことができるかい」と言ったら、おふくろが「学校でだけ使いなさい」と言って、そっと赤鉛筆を渡してくれたとき、怖い父ちゃんの隣に優しい母ちゃんがいるんだなと子供心に安心したことを覚えております。
 おやじに叱られてばかりで、僕はおふくろに泣きついたことがある。「母ちゃん、何で父ちゃんはあんなに僕にがみがみ小言ばっかり言うんだろうね」と言ったら、おふくろは「親の意見となすびの花は千に1つも無駄がない。父ちゃんの言うことを聞いていれば間違いないの」。僕の味方をしないでおやじの味方をした。このとき僕は思いましたね。ことによったらこの女、おやじのかかあじゃないだろうか。
 10歳のとき、おやじに呼ばれました。「おまえ、歳が2けたになったんだよ。いつまでも親に食わしてもらって生きていけると思ったら大間違い。自分の力で生きていかなければならないときが来る。その支度は早いうちにしておけ。店を手伝って仕事を覚えなさい。働け。働くということは自分の体を動かすことによって、はたの人を楽させる、はたを楽させるからはたらくと言うんだよ。自分が楽しちゃだめだぞ。自分は苦労して、他人に楽を与えておけば、その楽がめぐり返っておまえの幸せになるんだ。働け」と言われて、僕は坊主頭に鉢巻きをしめて、店に立って、「いらっしゃい、毎度ありがとうございます」。店の手伝いをしながら商売の難しさ、厳しさ、そして楽しさ、そんなものを少しずつ覚えていったんですね。
 夜、店が終わって、おやじが僕にこう言うんです。「おまえ、『ショウバイ』ってどう書くか知っているか」「知ってるよ、商人の商という字に、売るという字を書いて商売だろ」と言ったら、おやじは「違うんだな。笑うという字に、売るという字を書いて笑売なんだよ。うちで魚を売っているな。どこの魚屋さんだって皆同じ魚河岸から買ってきた同じ魚を売っている。その魚屋さんを通り越して、1人でも多くのお客さんがうちに来てくれるためには、うちでは魚を売るときに、にっこり笑って笑顔で売るんだよ。笑顔のあるところには人が集まる。人が集まればお店が繁盛する。笑いを売ると書いて笑売だ。覚えておけ」。それから10日ほどして学校に行ったら、国語の書き取りの試験に「ショウバイ」という字がありました。僕は笑いを売ると書いてバツになった覚えがある。
 経験にまさる学問なし。もちろん学問は大事ですが、学問だけで世渡りはできません。努力、経験、苦労を身につける、これが第1ラウンドです。僕はお店の手伝いをしたという経験、これが大人になって役に立ちました。魚を上手に切るためには、包丁研ぎがうまくなくてはいけない。僕は毎朝学校に行く前に10分間、包丁を研いで行くんですから、包丁研ぎはうまい。この経験は結婚してから役に立ちました。ごくたまのことですが、黙って包丁を研いで包丁さしに入れておく。知らずに女房がお料理を始めて、「あら、よく切れるわね。パパまた包丁研いでくれたの。ありがとう。包丁がよく切れると仕事をしていて楽なの。第一、お料理が楽しいの。感謝するわ。こっちへ来て。お礼よ」。チュッ、なんてことになって、夫婦円満の秘訣になる。夫婦円満のうちからは非行少年、非行少女は出ないんですね。

■『アカカシのハーモニカ』
 僕は一生懸命お店の手伝いをしながら、学校へ通って勉強をしました。よく働きました。そんなに働いたんですから、いくらけちなおやじだってたまには大いに、おもちゃのひとつくらい買ってくれたっていいはずなのに、おやじのせりふは相変わらず同じで、「欲しいものがあったら自分でつくれ」。つくれと言ったってつくれないものはたくさんあります。ハーモニカ、これはつくれません。僕は友だちのうちへ行ってハーモニカを借りて吹くと、とってもうまく吹ける。うちへ帰って、「父ちゃん、ハーモニカを買ってよ」「何で」「いい音がするんだよ」「いい音ならこれで出せ」と、おやじは僕のところへ、葉っぱを持ってよこした。これはアカカシと言いまして、よく垣根になっている葉っぱ。今どきになると真っ赤な葉っぱが出ています。それが間もなく緑色に変わっていく。「こんなもの鳴るわけないだろう」と言ったら、おやじは「おれは鳴らせるぞ。おれに吹けておまえに吹けないのは、おまえがやらないからだよ。やらなければ何にもできやしない。悔しかったらやってみろ」。それから僕は学校の行き帰りによそのおうちの垣根の葉っぱをむしって、ぷー、ぷーと、鳴らないんですね。3日でもうあきらめた。そうしたらおやじが、「どうしたい、草笛吹けるようになったか」「鳴らないからやめたよ」「やめた? 3日でやめたの。そういうのを昔の人は三日坊主と言ったんだよ。一念発起はだれでもする、とりあえず実行もする、努力までなら皆するんだよ。そこでやめたらどんぐりの背比べで終わりなんだ。そこから1歩ぬきんでるためには、努力の上の辛抱という棒を立てるんだ。その棒に花が咲くんだよ。辛抱できないやつはいくじなしだ。おれは吹ける、おまえは吹けない。おまえはおれに負けたんだよ。負けたら悔しがれよ。悔しかったらやってみろ。やるからには続けろ。続けなければ答えは出ないんだぞ」。こう教わりました。
 僕は負けて悔しかった。それからまた、学校の行き帰りに葉っぱをむしって吹いているうちに、ある日突然、ピーっと鳴ったときのうれしかったこと。だんだんなれて、メロディが吹けるようになった得意なこと。僕は胸をそらして、うちへ飛んで帰って、「父ちゃん、草笛吹けるようになったよ」と言ったら、「おいおい、偉そうな顔をするなよ。何か1つのことができるようになったとき、自分1人の手柄と思うな。世間の皆様のお力添えと感謝をしなさい。自分1人で何ができる。片手で錐(きり)は揉(も)めぬと言うもんだ」。昔の人はいい言葉を知っていますね。片手で錐は揉めぬ。そのとおり。両方の手の協力によって、初めて錐という1つの役立ちができる。夫婦が、親子が、兄弟が、友だち同士が、先生と生徒が、政治家と国民が、力と心を合わせることによって1つの目的が達成できる。人に力を貸しなさい、人の力を感謝しながら生きていきなさい、とそんなことを教えてくれたんでしょうね。
 その草笛が吹けるようになった次の朝、目を覚ましたらば、まくら元に新聞紙に包んだ細長いものが置いてあった。何だろう。開けてみてびっくりした。ハーモニカが出てきたんです。あのときのうれしさ、あのときの感激は忘れられません。あれほど欲しがっていたハーモニカを、あのけちなおやじが買ってくれたんだ。僕はハーモニカを胸に抱きしめて、おやじのところにとんで行って、「父ちゃん、ハーモニカ買ってくれたの」と言ったら、「努力の上の辛抱を立てたんだ、花が咲くのは当たり前だよ」とね。昔の親は、我が子にハーモニカを1つ買うにしても、こんなに心を砕いてくれたんですね。僕が「荒城の月」を吹くと、おやじは何を思い出すのか、目にいっぱい涙をためて聞いてくれた。
 このハーモニカには後日談があります。おやじの前でハーモニカを吹き終わった僕は、すぐに台所にとんで行って、おふくろに報告したんです。「母ちゃん、父ちゃんがハーモニカを買ってくれたよ」と言ったら、おふくろがこう言ったんです。「3日も前に買ってあったよ」「何で」「父ちゃんが言っていたよ。あの子はきっと吹けるようになるよ」と。こんなうれしい言葉がありますか。僕はそのときに体中の何かが込み上げてきて、立っていられないほどに体が震えて、涙がぼろぼろこぼれました。父ちゃんは僕を信じてくれていた。親に信じられる子供ってこんなに幸せなんだ。人に信じられるということはこんなにすばらしいことなんだ。おれはこれからの人生、人を裏切らない、人に信じられて生きていける人間になろう、なっていこう。そんな思いをしっかり自分の心に込められたのは、あのときのお父さんとお母さんのおかげだと、そう思って、感謝をしています。

■『物に感謝する心。それが人に感謝する心』
 僕は子供のころに、お父さんに一度こんなことを言いました。「けち」。そのときにおやじが、「おい、こっちへ来い。おまえ、けちっていう字はどう書くか知ってるか。賢者の賢、賢いという字と、生きる知恵の知を書くんだ。生きるために賢い知恵を使う、これがけちなんだ。どこが悪い」と言われて、僕は何も言えなかったことを覚えています。そういえば僕のお父さんはけちではないのです。物を大切にする人です。今、物があり余っています。人は平気で物を捨てます。平気で物を捨てる人は、その品物には感謝をしません。物に感謝をしない人は、人に感謝をしません。人に感謝をしない人は、人に感謝をされるようなことのできない人です。そんな人間にはなりたくないですね。
 魚屋さんが河岸へ行きます。きめ箱と言って、決まった箱の横に魚屋さんの屋号が書いてある箱があるんです。この中に買った魚を入れて、トラックに乗せて持って帰る。アジの干物とか、イワシの干したのとか、イカの干したの、こういうのは薄い幅の箱の中に入れられて、下にワラがしいてあるんです。そして何箱かこれを買って、我が家へ持って来るんです。中の魚を売ってしまうと、この箱が、板切れが邪魔になります。どこの魚屋さんでも一斗缶のまわりに穴をあけて、この中にこの木切れを入れて、燃やしてしまってなくすんです。ところがうちのお父さんは、この木切れを同じ長さの寸法に切り整えて、そして荒縄で丸くふんじばって、まきにするんです。そして軒下にこれが重ねて置いてあります。そばに紙が張ってある。「まきのお入り用の方はご自由にお持ちください」
 今は指の先だけでご飯が炊けます。昔はかまどの前に座って、火加減を見ながらご飯を炊いたんです。どこのおうちでもまきが欲しい。近くの長屋のおばさんたちもまきが欲しい。お店の前にまきが積んである。「これ、もらっていっていいんですか」「どうぞ」。もらってうちへ帰ってまきを使う。ご飯を炊きながらどう思います? 「あの魚屋さんにまきをもらったんだから、今度魚を買うときは、あの魚屋さんで買わなければ悪いわね」。これは人の情です。物が生きて、そしてお店が繁盛する。
 四隅をとめてあるくぎ、抜くときに曲がります。これを僕はかなづちでたたいてまっすぐに直す。時々指の先をたたいて痛い思いをしたりしてね。このくぎを、区切られた箱の中に同じ寸法のくぎを入れるんです。入れる前に、お湯の中に入れて塩気をぬいて、そしてざるの中でかき混ぜながら、油をたらしてさびないようにして、これまた軒下に置いてあります。「くぎのお入り用の方はご自由にお持ちください」。物を大切にするということは、人間が幸せに生きていく基本なんだよ。けちじゃないんだ。賢い知恵を使って生きていく。その賢い知恵の中で一番失ってはいけないのは、物に感謝をする心。それが人に感謝をする心につながっていくんだぞと、僕のおやじは教えてくれたんだなと思います。
 その厳しいおやじが、今振り返って思えば、本当にいいおやじだなと思ったのは、勉強をしろと一度も言ったことがない。勉強は自分でするもの、人に言われてするものではありません。そのとおりだと思う。僕はお店の手伝いをしながら、一生懸命勉強をしました。おかげでなぜか小学校の成績がとてもよかった。本人が言うんだから間違いない。おかげで僕は上の学校ヘ行けることになった。おやじは僕を呼んで、「魚屋のせがれが余計な学問を身につけると、親のおかげを忘れて親をばかにするようになるから、おれは行かせたくないんだが、先生が行かせろと言うから行かせてやる。そのかわり金を出すのは父ちゃんだ。父ちゃんの気に入った学校ヘ行け。電車賃を出さないから歩いて行けよ。それも片道30分以上歩く学校。往復1時間歩けば足も丈夫になるし、ことによったら途中で何か拾うかもしれない」。僕の足で40分ほど歩いたところに帝京商業という学校があって、ここを受けた。280人中の6番で受かった。280人中の6番で受かったんです。(拍手) 聞こえているんならいいんですけれどもね。知らん顔していたから、ことによったら聞こえなかったかと思って、ちょっと確認させていただきました。

■『弁論部? 3つくらい入っておけ』
 5年間この学校で勉強して、卒業するときの成績が186番。何でそんなに落ちたか。おやじが試験勉強というのをさせないんです。試験が来たから勉強していたら、おやじが来て、「何してるんだ」「試験だから勉強してるんだよ」「試験? どんな問題が出るんだ」。それがわかれば苦労はしない。「今まで習ったものの中のどこかが出るんだよ」「今まで習った? 一度習ったものをまたやっているのか。卑怯なまねをするな。暇があったら店を手伝え」。店の手伝いばかりしているからだんだん成績が落ちていく。子供心に悔しい。3畳の押入れの中にりんご箱を持ち込んで、これを机のかわりにして、夜中から明け方まで押入れの中に電気をつけて勉強していた。睡眠不足です。夜にお店の帳面つけをしているときに居眠りをして、おやじにそろばんで殴られた。しかも魚屋が使う大きなそろばんで左のこめかみを、コッキーン。それで僕は小金治という。「仕事中に居眠りするやつがあるか」と言ったら、おふくろが「父ちゃん、この子は夜の夜中、明け方まで押入れの中で電気をつけて勉強しているんですよ」。「そうかい、それは感心だな」と褒めてくれるどころか、「どうも近頃電気代がかさむと思っていた。そんなむだなことはやめろ」というんです。
 旧制5年制の商業学校では3年生のときにそろばん3級の試験を受けて、4年生のときに2級の試験を受けて、卒業をするまでにそろばん1級の試験に受かればよしとされている。僕は2年生の3学期にそろばん3級の試験を受けて、運よくこれに受かって、商工会議所のお免状をもらって、うちへとんで帰って、「父ちゃん、3級の試験に受かったよ」「何?」「3級の試験に受かったよ」「ありがとうって試験もあるのか」「サンキューって英語じゃないんだよ。そろばん3級の試験に受かったの」「そろばん3級の試験というのはどんなことをするんだ」「そろばんを使って8けたから12けた、暗算で4けたから6けたまでできるようになると、そろばん3級の試験に受かるんだよ」と言ったら、おやじは「そんなむだなことはやめろ。うちの魚は3ケタどまりだ」。
 もう1つ、その学校で僕が困ったことがあります。おやじが僕を部というところに入れさせてくれない。どこかの部に入らなければならない。僕は野球が好きで上手だった。「父ちゃん、野球部に入りたいんだけれどもどうだろう」「グローブを買ったり、ユニフォームを買ったり、スパイクを買ったり、銭がかかるからだめだよ」「剣道部はどうだろう」「剣道部っていうのは一番高い道具だからだめだ」「柔道部はどうだろう」「柔道部も安くないからだめだよ」。どこにも入れさせてくれない。困って、弁論部をやることに。「父ちゃん弁論部へ入ろうと思うんだけれどもどうだろう」「弁論部? あれは口だけでいいんだな。3つくらい入っておけ」なんて言うんですね。経験にまさる学問なし。苦し紛れで弁論部に入ったあのときの経験が、落語家になったときに役に立ってくれました。今こうして講演というお仕事をさせていただけるのも、あのときの経験が僕のどこかに芽吹いているに違いないと、親に感謝せずにはいられません。

■『にっこり笑ってみろ。それがおまえの力』
 当時、日本は戦争をしていました。若者は兵隊さんにならなければいけないという時代だった。僕は陸軍少年飛行兵になろうと思って、おやじのところへ行って、「父ちゃん、僕は少年飛行兵になろうと決めたよ。なってもいいだろう?」と言ったら、おやじは「おふくろに相談しろ。男は思ったことを全てやれとは言わないんだ。自分でやろうと決めたことはやりぬけ」、そう言っていたおやじが、「決めたと言うのなら、おふくろに相談しろ」。おかしなことを言うなとおふくろのところへ行って、「母ちゃん、僕は少年飛行兵になろうと思うんだけれども、なってもいいだろう?」と言ったら、おふくろは「お国のために兵隊さんになるのはいいことだけれども、飛行機はやめておくれ。あれは落ちるでしょう。落ちないものにしておくれ」。我が子を戦場に送り出さなければならない親ですが、少しでも危険度の少ないところへ送り出したいという必死の願い、母の思いが僕の胸にじんとしみて、翌朝おふくろに、「母ちゃん、少年戦車兵はどうだろう」「戦車はいいよ、鉄に囲まれているから」
 この戦争でたくさんの人が死にました。今日五体満足で生きていられるのは、あのときのおやじ、おふくろの思いが僕を助けてくれたんだと、そう思っています。今振り返って思えば、あのとき僕が少年飛行兵になっていたら、今日の僕はいません。死んでいました。今生きていられるのは親のおかげ。感謝せずにはいられません。
 戦車学校は静岡県、富士の裾野にあります。ここで僕は8月の終戦を迎えた。5月の東京大空襲で我が家は丸焼けになって、おふくろと妹は長野の親戚に疎開をして、おやじは群馬県中之条の弟さんのうちに1人やっかいになっていた。終戦3日後、僕はおやじのところへ帰ろうかな、おふくろのところへ帰ろうかな、散々迷った末、群馬県中之条のおやじのところへ戻っていった。おやじは僕の顔を見て喜んで、「戦争でたくさんの人が死んだ。五体満足で帰ってこられて、おまえは幸せだ。その幸せを大切に生きていけ。母ちゃんのところへ帰ろうか、おれのところへ帰ろうか、おまえは随分迷ったろう。人間は一生の間で迷うことは何度もある。そんなときには嫌だなと思ったほうへ行け。そうすれば人生苦労が少なくて済む。よく帰ってきた。おれはもう一遍東京へ行こうと思っている。おまえはどうする」「もちろん父ちゃんと一緒に行くよ」「よし、ついてこい」。大八車を買ってきて、わずかばかりの家財道具をこれに乗せて、おやじがかじ棒を引いて、僕が後ろを押して、群馬県中之条から東京まで約130キロ、4泊5日の強行軍で出ていった。
 終戦直後、東京を離れて疎開をしていた人たちが、列車はありません、荷車を引き、リヤカーを引いて、東海道、中央道、中山道、どの街道も大変な混雑だったんです。その混雑の中を縫うようにして、野宿を重ねて4日目の朝、目を覚ましたのが大宮の手前の道端です。4日間歩きづめ。足が痛い。ろくろく食べていないから腹が減っている。朝起きて僕は嫌な顔をしたんです。おやじは僕の前に立って、「つらいか、苦しいか。つらいときにつらい顔ならだれでもするぞ。苦しいときに苦しい顔ならだれでもできる。そんなときににっこり笑ってみろよ。それがおまえの力だよ」。その言葉は忘れられない親の言葉として、体にしみついています。僕は笑顔を取り戻して、また車の後押しをしながら、「笑顔ってこんなに力が出るんだ。おれはこれからの人生、笑顔で生きていこう」、そんな誓いを心に抱きしめながら、その日のうちに東京に着いて、空襲後の焼けトタンを集めてきて、畳3畳敷きの小さな小屋をこしらえて、ここでおやじと2人、雨露をしのいだ。今思えば、いい小屋だった。夏になると暖房装置になって、冬になると冷房装置になる。
 おやじは腕のいい板前職人です。焼け残った昔の仲間の店を手伝って、いくらかの給金をもらって帰ってくる。僕は手に職がない。困った。おやじのところへ行って、「父ちゃん、仕事がなくて困っちゃった。どうしたらいいだろうな」と言ったら、おやじが僕の顔をじっと見て、「死んだらいいだろう」。この言葉、この言葉を僕は忘れません。そのとき僕は死んでたまるか、おれは頑張って生きるぞ、その活力を僕に与えてくれたのはあの一言です。「死んだらいいだろう」。おやじは僕を信じてくれたから、その言葉を僕に投げかけることができたんだと思います。

■『この赤飯にこたえるぞ』
 うちへ帰って、ふと気がついたら、おやじが着物道楽だったんです。着物をたくさん持っていた。空襲の後の焼け残しの着物を3枚売った。着物でできる商売はないかな、そうだ、おやじはよく寄席へつれていってくれた、落語家は皆着物を着ていた、落語家になろうと決心をしたのが昭和21年、暮れも間近い寒い晩でした。新宿末広亭の楽屋をがらりと開けて、「落語家にしてください」と入っていったのですが、そう簡単には落語家にはしてくれない。「楽屋で働いていてごらん」。働くということは子供のころからおやじにたたき込まれています。僕のお父さんは、人に用事を言いつけられてから仕事をするやつは半人前、自分の目で、自分で仕事を見つけて、自分で動けるやつが一人前。僕は生まれて初めての楽屋で、目で見るものを仕事に変えて駈けずり回った。この姿を認めてくれたのが、関西出身の桂小文治師匠。「よう働くやつだな。わいの弟子にしてやるで」
 この師匠の目にとまったのが僕の幸運の始まり。この師匠の目にとまるような男に育てておいてくれた、おやじのおかげです。桂小竹という名前をもらって、うちへ帰っておやじに報告したら、おやじは喜んで、「いい名前をもらったな。小さな竹か。大きな竹にすくすく伸びろと言うんだ。だけど竹には節があるぞ。節がないと雪に折れる、風に負ける。あの節は竹が自分でつけた。節をつけて強く生きていけ。おめでとう。お祝いに明日お赤飯を炊いてやろう」
 うそをついた。「うそをつくなよ、人に迷惑をかけるなよ」と言いつづけていたおやじがうそをついた。お赤飯を炊くと言ったって、うちに米がないことは僕が一番知っていますから。当時お米は配給です。配給のお米はすぐに売ります。そのお金でふすまの粉、さつまいも、ジャガイモ、とうもろこしを買ってきて、食い延ばしをするのです。おととい僕が米を売ったばかり。1粒の米もないのに赤飯が炊けるわけがない。おやじは僕を喜ばせたい一心で、つらいうそをついたんだな。
 せんべい布団にくるまって寝ました。翌朝、目が覚めたそのとき、いつものお膳の上に小さなお鍋が乗っている。何だろう。ふたを取ってみて驚いた。ぱーっと湯気がたって、おいしそうなにおい。1合そこそこのご飯が炊けていて、それに食紅が落としてある。まごうことなきお赤飯。それはもち米ではありません。小豆も入っていない。おやじは約束を守って、僕に赤飯を炊いて祝ってくれた。「父ちゃん、これはご飯じゃないか。うちに米がなかったろう。どうしたの」「おまえの門出を祝っておれができるのはそのくらいのことだよ。今朝、米屋の前へ行って掃き集めてきたんだよ。きれいに洗ってあるから、心配しないで食え」。この一言が僕の胸に突き刺さった。さんざん、何も知らずに僕は布団にくるまって、ぬくぬく寝ていた。おやじは暗いうちにそっと起き出して、ほうきとちりとりを持って米屋さんの前へ行ったんですね。
 今、お米はきれいな袋に入って、1粒もこぼれないようにできています。当時はトラックに米俵を乗せて、米屋さんの前まで運んでくる。この米俵に手かぎを引っかけて、米屋の中に担ぎ込む。その途中で、俵のすき間からこぼれたお米が米屋さんの前に散らばって、コンクリートのすき間にでもはさまっている。おやじはほうきとちりとりを持って、暗い米屋さんの前で、お店の前に散らばっているお米をかき集めてくれたんです。1軒の店だけででは1握り、これだけの米を集めるのに何軒、何時間、どのくらいの道のり、この寒空の下を歩いてくれたのだろう。親ってありがたいものなんだな。胸がいっぱいになる。涙がぽろぽろこぼれて、ご飯が口に届かなかった。おやじは僕の顔をじっと見て、「しっかり食えよ、今朝、スズメの上前をはねてきたんだ。残すとスズメに叱られるよ」
 僕はこのときに思いました。おれはこの赤飯にこたえるぞ。おやじの心に報いるぞ。あいつが落語を5つ覚えたと聞いたら、おれは10覚えよう。あいつが10回けいこをしたと聞いたら、おれは20回けいこをしよう。けいこ、けいこと歩みながら寄席に通った。

■『おやじが守ってくれた』
 我が子を奮い立たせるのは親なんですね。一生懸命楽屋で働いて、わずかのお給金をもらって、これをおやじに渡す。おやじは自分の稼いだ金とあわせて、少しずつですが、長野のおふくろのところに送り続けた。やがておふくろのところから、3畳2間、高さ6尺、小さな家の骨組みを送ってきてくれた。これを大工さんに組み立ててもらって、今日は板を1つ、今日は板を2つ、継ぎ足し継ぎ足ししてやっと一軒のうちができ上がって、前の3畳をお店に直して、おやじとおふくろが一杯飲み屋のまねごとをする。裏の3畳は親子4人、狭いながらも楽しい我が家。
 一杯飲み屋と言ったって、3畳のカウンターとお客さんが3人座ったら、もう満員御礼、札止め。ろくな商売ができやしない。ところが、夏、かき氷屋を始めた。これが当ったんです。よしずを張り出して、場所を広げて、長いすを2つ置いて。手回しの機械で。懐かしいですね。今は皆電気でかき回すが、昔は手回しの機械の間に氷を挟んで、そして手で機械を回して氷をかいたんです。ところがこの機械は高くて買えません。苦し紛れに、氷をかくかんなを買ってきて、かんなで氷をかいていたら、あそこの氷は目が荒くておいしいよと評判が立った。人生何が幸いするかわからない。
 2キロほど離れたところに製氷会社がある。ここへ行って、6貫目の氷を2枚買って、天幕に包む。背中に座布団をかって、うちまで運ぶ。冷蔵庫を買うお金なんてありませんが、おやじは知恵がある。二重の箱をこしらえて、間にかたくおがくずを詰めた。この箱が冷蔵庫のかわり。たった12貫目の氷です。寄席が終わって、僕がうちに帰ってくるころにはその氷はいつも売り切れている。その箱がからからに乾いているはずなのに、ある。1貫目の氷の塊が2つ残っている。「あれ、なんだよ。父ちゃん、氷が残っているじゃない。どうしたのこれ、売れなかったの」「売れすぎるんだよ。後から後からお客さんが来てくれるのに、氷が売り切れてしまって商売を休んでいるのはもったいないだろう。おれは今日、製氷会社に行って、6貫目の氷を2回運んだよ」
 この一言は辛かった。2月の中ごろからおやじの体の具合がおかしくなって、病院へ無理やりつれて行って先生に診てもらった。先生は僕をかげへ呼んで、「お父さんの病気は肝臓ガンです。もう手遅れで手術はできません。無理をさせずに長生きさせてあげなさいね」。そう言われていたおやじが、あの重い氷を担いで2キロの道を行き帰りした。ああ、おやじに苦労をかけたな。そうだ、自転車が欲しいな。自転車があれば一度にたくさん楽に氷が運べる。自転車が欲しい、欲しいと思いながら寄席に帰った。
 その自転車が近所の川端に捨ててある。当時は貴重品です。寄席が終わった帰りがけ、新宿マーケットの裏を通ろうとしたら、隅のほうに自転車が1台置いてある。透かしてみると鍵はかかっていないんです。あたりを見ると人影はない。自転車に近づいて、ハンドルを持って、かたんと動かしたらすーっと動いた。僕は思わずひらりとこれにまたがって、自転車泥棒をしたんです。500メートルほど離れたところに京王電車の踏み切りがある。ちょうど電車が通りかかった。目の前に遮断機が下りて、かんかんかんかん、ごーっと電車が通りすぎて行った。ああ、皆1日一生懸命働いて、まじめに我が家へ帰っていく。おれは1日働いて、帰りに人の物を盗んだ。えらい違いだ。返しに行かなければ。
 人間の運命というものは30秒、1分で変わるもの、狂うものですね。今思えばあの遮断機がもう30秒後から下りたら、僕は下りかける遮断機の下をすり抜けて逃げていって、一生自転車泥棒の汚名を胸に隠して生きてこなければならなかったはずです。僕は運がいい。遮断機が僕を助けてくれたんです。僕は自転車に乗って、もとの場所に戻っていった。もとの場所には売り込みのおじさんがいて、自転車が盗まれたと大騒ぎしているところで、「おまちどうさまでした」「こらー」と、よってたかって殴られて、僕はそのまま淀橋警察署の留置場のご厄介になりました。翌朝、刑事さんが来て、「自転車の持ち主が、『盗む気があったらそのまま逃げて行った。途中で返してきたのは、一時の出来心。将来ある若者なんでしょう。2度と悪いことをしないようによく叱って、許してやってください』。この一言がなかったら、おまえは網走へ50年は行く運命だった」。そう叱られて、無罪釈放の身となって、うちに帰ることができた。
 1晩もうちをあけたことのない僕がうちをあけたんですから、当然おやじは「ゆうべはどうした」。おやじの前でうそはつけない。実は、かくかくしかじか、自転車泥棒をし損なって、淀橋警察署のご厄介になりました。「ばか野郎」、おやじの鉄拳が飛んでくると思ったら、おやじはぐっと手をひざの上に置いて、目をつぶって黙っている。おやじの手がぶるぶると震えたと思ったら、突然涙がぽろっと流れた。おやじのほほを涙が流れ落ちた。おやじは僕の前に手をついて、「おまえにそんな気持ちを持たせたおれが悪かった。勘弁しろ」。おれはおやじに抱きついて、「父ちゃん、僕が悪かった。2度と悪いことをしないから許して」と泣きました。78年間今日まで、どうにか人様に後ろ指を指されずに生きてこられたのは、あのときのおやじの強さ、そして温かさが僕を守ってくれているんだろう。感謝しています。
 目上の人間が、目下の人間に謝るということは難しいことです。ましてや、親が我が子の前に手をついて、許してくれとは言えないはずです。それを僕のおやじは僕の目の前で見せて、教えてくれました。長い人生、悪いことをしたときにはすぐに謝れ。素直に謝れ。そこからおまえの新しい一歩が始まるんだよ。人間の強さを教えてくれたおやじだと思います。その強いおやじも病気には勝てません。翌年昭和27年5月11日、61歳の若さで、貧乏のどん底でこの世を去りました。「親孝行したい時分に親はなし、さりとて墓に布団は着せられぬ」。日本にはいい言葉がたくさんありますね。本当にいい言葉だと思います。
 僕は、せんべい布団の上でおやじを死なせました。おやじは死ぬときに僕をまくら元に呼んで、「おい、おれが死んでも無理して葬式を出さなくていいよ。うちが貧乏だということは世間は皆知っているんだから。おれが死んだらこもに包んで、酒屋さんへ行って、リヤカーを借りてきて、リヤカーに乗っけて、そのまま火葬場へ持っていけ。景気のよさそうな葬式があったら、済みません、ついでに焼いていただいていいですか。骨になったら少し混じったほうがにぎやかでいいんだよ。1つだけおまえに頼みがある。おれは墓を持っていない。墓をつくって、おれとおじいちゃん、おばあちゃんを入れてくれ。その墓も、5人、10人のお客さんが来てもびくともしないうちをつくって、それからおれの墓をつくってくれ。母ちゃんを大事にしてやれよ。妹と仲よくしろよ」。僕の名前は田辺幹男。おやじの最後の言葉は、「幹男、おまえはよく頑張ったな」。おやじのこの一言は、僕の宝物として、僕の心の中に残っています。そして、これからも1日1日頑張り続けていかなければいけないな、その思いを僕の心の中にたたき込んでくれたのは、僕のお父さんです。

■『人は苦しみ、闘い、乗り越えていく。そこに人生が』
 おやじが死んで、さあ、墓をつくりたい、うちを建てたい、そう思いました。でも先立つものは金です。落語家の収入だけでは、うちは建てられません。墓もできません。ところが、またまた僕は運がいい。僕の落語のファンだった松竹の映画監督、川島雄三さんが僕を映画に出させてくれたんです。おやじが5月に死んだ。8月のお盆の頃に僕を出してくれた。このときの映画の題名が『こんな私じゃなかったに』というんです。そのときの僕の役が葬儀屋の役だったんです。うそみたいな本当の話。おやじの導きとしか思えません。この映画を試写室で所長さんが見て、「おい、この男を契約者にしろ」。電話で呼ばれて撮影所へ行った。話を聞いてびっくりした。その頃僕は若手の売れっ子で、寄席を1カ月1人で、その間に放送を1、2本、お座敷を1、2回稼いでも、月4,000円のお給金を超えるか超えないかくらいしかもらえないその僕に、映画1本5万円。年間6本契約で30万くれると言うのです。僕はまず所長に聞いた。「官僚が絡んでませんか。日本にそんな金があるんですか」と。
 とんで帰って師匠に報告をした。このときの師匠がもし関東の師匠だったら、「ばか野郎、おまえは落語家じゃないか。落語以外のことを考えるな」、これで終わりだったかもしれない。ところが師匠は関西の人です。「ええ話やないか。おまえわいより銭とるぜ。えらいやっちゃ。映画の世界に行ってよろしい。ただし1つだけわいと約束しろ。女優にだけは手を出すなよ」。先人の声は道しるべ。どうかすると、若い人の中には先輩の言葉を聞かない人がいるんですね。「古いんだよ」「うるせえな」「時代が変わったんだよ」。時代がどう変わろうとも人間の基本は変わりません。その基本を大切にしていくということが大事なんですね。人間は苦しみます、闘います、そして乗り越えていく。そこに明日という人生が広がっていく。先人の声は道しるべです。先輩の言葉をしっかり耳にとめて生きていく人と、何も聞かない人では、人生どこかで差が出てくるに違いない、そう思います。
 僕はそのときの師匠の言葉を守って、撮影所へ行ったって女優なんかに見向きもしない。あいつは落語界から来たやつだよ。今に女優にちょっかいを出すから見ていろ。人はそんな目で見るもの、見られるものなんです。「おまえはまじめなんだな。よし、まじめなら使ってやろう」。まじめということだけで、映画に出させてもらっているうちに、少しずつ、演技らしきものが身について、ギャラが上がって、本数がふえる。5万が10万、15万、20万、30万。6本、8本、12本と増えたおかげでたくさん金もうけができて、うちを建てることができました。おやじの墓をつくることもできました。これも皆、師匠の言葉を守って、女優に手を出さなかったおかげです。
 僕のうちはもう子供が大きくなりまして、一番上が48歳の女の子、45歳の男の子、42歳の男の子、一姫二太郎。世界の水準どおりの子持ちなんです。僕と女房と2人だけでつくった子。だれにも手伝わせなかった。おれは長女が生まれたときに、これからは子供の育て方は難しいぞ。親は民主主義とか自由主義という言葉にだまされて、弱い子、わがままを言う子、人に迷惑をかける子、うそをつく子、こんな子に育てあげたら親は災難、子供の不幸だよ。世間の人が何と言おうと、おれはおやじに殴られて今日がある。我が子が悪いことをしたときには殴るぞ。これは体罰ではないんだ、愛のむちなんだ。いいことをしたときにはうんと褒めてやる。おまえどうする、と女房に相談したら、「私は江戸っ子よ、深川の生まれよ。子供のころ、お父さん、お母さんに随分ぶたれて育ったのよ。いつかこの仕返しをしてやろう」。女房と私の意見がぴったり合った。
 うちの子は悪いことをすると、お父さんお母さんに叱られました。いいことをすると、お父さん、お母さんに褒められながら成長したせいでしょうか、よそのお父さん、お母さんにいいお子さんですねと褒められるような子供になってくれて、こんなうれしいことはありません。3人の子供はそれぞれ、自分の力で自分の人生を切り開いて頑張っています。
 僕はお父さんとお母さんのおかげで今日の幸せがある、そう思っています。両親、片親でも失った人は不幸です。不幸だからこそ強く生きなければ答えは出せません。不幸であるということ、これを自分の刺激剤として、その不幸とにっこり笑って正面衝突をして、これと闘って乗り越えていったとき、初めて失われた人の心が、魂が喜んでくれるんだと、そう思って、1日1日を頑張ってください。自分に甘えることなく、人に感謝をする心を忘れずに、明日という日を自分の力で切り開いていってください。みなさんも人の心に花一輪を添えられるような人になってくださいねと、心から願わずにはいられません。(談)